Winter's man

すべて備忘録

ライヴとライブ

テレビでミステリードラマをやっていたのでなんとなく流し見をしていたら。

女性小説家の夫が自殺した。その小説家は作品内でいつも「出逢う」という言葉を使っているのに、ある作品だけが「出会う」を使っている。そこに引っかかった刑事が捜査を進めていくと、背後にゴーストライターがいることに気が付き、そこから事件の真相が解明され…という話だった。

うーん、「出逢う」と「出会う」かぁ…。

でもこれ、全部の作品読んでるような熱狂的なファンじゃないとこんな微妙なコダワリ分かんないんじゃない、、?とツッコミつつ言葉の意味を調べてみる。

「会う」も「逢う」も基本的にはどっちも同じ意味の、人と人が顔を合わせること、対面することとある。しかし、「逢う」の方は親しい人と会う、運命的な出会い、そこから転じて恋愛事へと発展するような「会う」の意味合いがあるらしい。確かに「逢引」とか「逢瀬」とか恋愛によく使われる文字だよな、「逢」。

この小説家ってのが恋愛小説家だったのかどうなのか、ドラマを観たはずなのにさっぱり覚えてないんでアレなんだけど、言葉に微妙な意味の違いがあるならば、どの作品でもいつも同じ「出逢う」を使うんでなくてそのシーンのシチュエーションに合わせるべきなんでは?と余計な事を考える。でもドラマとしてはそこに焦点を当てたかったわけだね。

 

日本語には漢字というものがあり、上記のように微妙な意味の違いをそれぞれ別の漢字をあてて表現するということがある。他にも、同じ言葉を漢字ではなくわざとひらがな、カタカナで書くことによってまた違うイメージを与えることも出来る。

NHKの音楽番組の「シブヤノオト」。

番組名の由来は知らないけど、多分NHKが存在する渋谷から届ける音、という意味なんだろう。ノオトはノートに掛けてあって、番組が1冊の本だとしたら、番組で紹介されるされるミュージシャンはノートの各1ページみたいに思わせるような多重の意味を持たせる。そして全部カタカナで表現することが何か外来語のようなおしゃれな雰囲気を纏う。これが「しぶやのおと」だとまたイメージが違うよね。

こういう例は他にもたくさんあるけれど表記文字が多種類ある日本語ならではだ。

 

ちょっと前にツイッターで、どこかの経済関係の出版社の編集者さんから著作者宛に文章を書く上でのお願いというツイがあった。

お願いというのは、固有名詞を文章内で統一してくれとか、ですます調はやめてとか(経済ニュースだからね)たくさんあったけれどその中に、文章内で使う言葉の漢字を統一してくれというのもあった。ちょうど最初に書いた「出逢う」と「出会う」みたいなのがあった時にどっちかに統一してくれと。

残念ながらそのツイには、校正をやるのが編集者の仕事だろ!とかツイートで呟くんではなく個別に言えとかのリプライが付いたり引用リツイートされたりしてプチ炎上し、どうやら今は削除されたみたいなんで見ることが出来ないんだけど、私には興味深くもあった。

だって、私には耳が痛い……!
私の文章って言葉が全然統一されてないもんね。

「できる」を「出来る」って書いたり書かなかったり、「~の方へ」と「~のほうへ」漢字使ったりひらがなだったり、「~のとき」も「~の時」だったりそうじゃなかったり。全然統一性ないからね!これはPCやスマホの変換のせい……と思ったら大間違い。きちんと文章を見て校正する人はちゃんと統一するからね。私は無頓着に「出会う」も「出逢う」も使っちゃう。全然ドラマにならないね。多分よっぽど意味を込めるつもりでなければ、文章や言葉をきれいに揃えるってことに全くこだわりがないんだろうなと思う。うーん、もうちょい頑張れよ私。反省。

 

世の中には言葉にこだわる人が大勢いる。

私の知り合いにも必ず「ありがとうございました」を「有り難う御座いました」と書いてくる人がいる。いつも絶対に「ありがと〜!」なんて略さない。その他の文章はタメ語なのに…なぜっ!?

でも多分その人にとってはそれが自分のこだわりなんだと思う。礼を尽くすときはあらたまった丁寧な言葉で表現しようという…。

いや、私にだってこだわっているものがあるから!ほんのちょっとのこだわりだけど!文章書くとき、というよりPCやスマホで入力するときの話。

それは数字やローマ字(?英語?)の全角入力をしない(どうしても許せない!)っていうやつです。なぜって読みづらいし!!なんか気持ち悪い!もちろん人が書いたものはいちいち指摘しませんが。読みづらいけど。しかし…自分で入力するのが気持ち悪い…。でも役所なんかに提出する書類では全角指定があったりして、ぐぬぬぬぬ気持ち悪い~って内心思いながら入力してる。

 

 

言葉の統一、というのを考えるときにいつも思うのが音楽オタクならではの言葉「ライブ」だ。

「ライブ」には現在の日本語では「ライヴ」という表記方法もあって、英語なら「LIVE」なので発音的には「ライヴ」が正解のような気もするが、ここは日本だし、だいたい[v]の発音ちゃんと出来てるのか?みんな!?という疑問もある。

でもつい書いちゃう「ライヴ」。なんとなくかっこいいから。

ところが、最近は「ライブビューイング」なる言葉も出て来た。

英語だと「LIVE・VIEWING」になる。現在の日本語では「ライブ」は「ライヴ」とも表記するが、「ビューイング」は「ヴューイング」という表記はしないんだよね、なぜか。「インタビュー」を「インタヴュー」とは決して書かないしね。そうなると「ライヴビューイング」と書くこともなんとなくバランス悪く感じてしまう。じゃあやっぱりこだわりにこだわって「ライヴヴューイング」と書いちゃうか??いやいや、やっぱなんか変…。こだわりすぎて逆に怖いわ。そうなると結局「ライブ」でいいじゃん、になっちゃうよなあ。なんで「ヴ」表記にこだわる必要ある?って。

実際世の中でも「バイオリン」と使われているところもあれば「ヴァイオリン」という表記されているところもある。「ボーカル」・「ヴォーカル」、「カバー」・「カヴァー」あたりも人によって媒体によって様々。

  

web.archive.org

2019年にこんなニュースが慎ましやかに流れた。

これは外務省が外国の国名を表記するときに「ヴ」を使わないことにした、というだけで別にもう「ヴ」を使っちゃいけませんよというわけではない。

でも、こういう法案が出ちゃうってことはメンドクサイんだろうねえ…。「ヴ」の使い分け。日本語からそのうち「ヴ」が消えることになる可能性もあるのかも。

 

 

話は変わるけれど、私が子供の頃「金大中事件」というのがあった。うーん、世代がっ!…^^;

当時の韓国の政治家金大中氏に関する事件で、内容はここでは全然関係ないけれど、その事件の報道で日本では「きんだいちゅう」氏という風に呼ばれたのね。けれどいつからか、もう故人ではある彼のことは今では「キム・デジュン」と呼ばれるようになってるんだよね。

これは、いつ頃からだったかは覚えていないけれど、外国人の名前や地名なんかはなるべく現地の発音で表記しましょう~という風潮が広がったため。韓国からは要請があったとかとも言われている。そういうのがマスコミ主導によるものなのか行政によるものなのか、ちょっと調べてないから分からないけど。

だから、特に中国や韓国の人名はそれまで「金(きん)」や「張(ちょう)」と書いて読まれていたけど「キム」「チャン」になっていることが多い。

そう、世界最高峰、「エベレスト」もいつの間にか「チョモランマ」と呼ばれるようになっているし!! もっとも「チョモランマ」はチベットでの呼び方で、ネパールでは「サガルマータ」らしい。さすが世界最高峰だけあって数か国にまたがっているから仕方ないんだろうけど、じゃあ現地語とはどこのを使えばいいの??となってまた別の問題が出てくる。
世界はもうグローバルで、一国だけで通用する呼び方にこだわっている場合ではなく、特に国名、人名はアイデンティティに係わることだから尊重するべきで、これからは現地語読みが普通になるんだろう。

しかし、他国の言語の発音がどこまで日本語で再現出来るのか?とも思う。発音って難しいよねえ…。世界共通語(?)で小学校、中学校から習っている英語ですら日本語ネイティブからしたら難しいもん。
だから、そこが日本風の発音になるなら、以前にあった日本でだけ通用していた「きんだいちゅう」読みと変わらない気もする。いや、意識的には違うけどさ…。

 

 

言葉は変わっていくとは言うけれど本当だな~と思う。

一時メクジラ立てる人が多かった「ら抜き言葉」(見られるを見れるみたいなやつ)もあんまり非難する人がいなくなった。

長く生きていると、流行り言葉がすごい勢いでやってきてすごい勢いで去って行くのも感じられる。そしていつまでもしぶとく残る言葉遣いもあって、面白いもんだなとも思う。

だからというわけではないけど、言葉ってその人なりのこだわり方で良くて(こだわりない人はそれで良くて)、人にこういうように書きなさいやりなさい!みたいにするものじゃないんではない?と思うようになった。

私は今でもそのときによって「ライブ」って書いたり「ライヴ」って書いたりしてる。それは「ヴ」の使い分けについて(自分の中で)使うべきか使わざるべきかの心情の(信条?)揺れなのである。 ゆれゆれブレブレだなぁ。元々の性格がそうだもん。分かってますよ。ごめんなさい。それにしてもライヴ行きた~い!!